· 

●日露戦争の軍神と会う2/2

1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。即日中佐に昇進した。 

5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を 行い、陸上の墓地に埋葬した。青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所がある。 

自らの命を顧みず部下の安否を思いやる行動から、明治以降初の軍神とされ当時の内閣総理大臣、岡田啓介により広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。

嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」とのエピソードが残されている。

【ロシア人女性アリアズナと広瀬武夫の純愛】

アリアズナは広瀬武夫がロシア留学、駐在員時に出会ったロシア人女性。彼女の父も軍人であり広瀬中佐の男気が気に入り頻繁に自宅に招いた。アリアズナは彼がロシアを去るとき銀時計と自分の写真入りのロケットを渡した。そして広瀬戦死の報が入った時、一人喪に伏して一生独身で過ごしたとも伝えられている。二人が出会った時広瀬武雄は31歳、アリアズナは23歳。ロシアにいる広瀬武夫中佐からアリアズナの話を聞いた兄夫婦は、ロシアから広瀬の恋人が来た時のためにと、自分の屋敷内に洋館を建てて待っていた。

           広瀬武夫中佐 六段



         湯浅竹次郎少佐 六段

幼少期に嘉納治五郎の書生となり訓育を受ける。

第3回閉塞戦12隻のうち「相模丸」の指揮官となる。25名の部下と共に閉塞に向かった湯浅は、「相模丸」を爆破し沈没させた後に戦死した。湯浅は第二回閉塞戦で戦死した広瀬武夫と同じく講道館門下で、死後六段を追贈された。

12隻をもってする閉塞では湾口中央部に沈没させる予定であった。

ロシア軍に発見され激しい迎撃を受ける。「相模丸」乗員は戦後まで帰還するものがなく、旅順開城後に捕虜となっていた9名によりその顛末が明らかとなった。相模丸は防材を突破して湾口に進入し、湯浅は目的地点に到達したものと認め、「相模丸」を爆発させ総員退去を図った。

この時まで乗員に戦死者はなかったが、激しい風浪に加え銃撃を受ける中、「相模丸」の沈没の際に発生した旋渦のため、移乗した救命ボートは転覆し湯浅は戦死した。1905年(明治38年)11月、湯浅、向菊太郎少佐、白石葭江少佐ほか36名がロシア軍によって白玉山西麓に埋葬されていたことが判明した。

平素ならびに開戦以来の行為は軍人の亀鑑であるとされ、少佐に昇進し軍神と仰がれた。

【異説】海軍発表によれば湯浅は、端船転覆後ロシア軍の攻撃に被弾し戦死したとなっている。しかしこれには異説がある。戦後ロシア陸軍少尉として旅順攻囲戦に参加した人物から日本の友人に寄せられた手紙では、湯浅は旅順に上陸したが、人事不省となりロシア軍の捕虜となった。湯浅は時計の紐での縊死、飛び降りなどで自決を図った。飛び降りでは重傷を負ったが治療を拒否し、また食事も拒否した。ロシア側は注射で栄養の補給を行うなどの措置をとったが、湯浅は死に至ったという。

 

参考文献「坂の上の雲」・司馬遼太郎著、講道館ホームページ、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 他